絵を持ち帰った理由



 療養所に近づくにつれて高原の冷涼な風が頬を撫でるようになった。一応対向車がないか確認しつつ、ハンドル片手になんとか緩めていたネクタイを締める。こんなことをしても大して意味はないのだろうが、気持ちの上では幾分暖かくなったように思う。
 町から療養所までの道の両脇には、背の低い草に覆われた平地が続いている。療養所の近くには幾本か白樺の木が植わっているが、全体としてどこか灰を被ったような、そんな白く無機質な印象を受けるものばかりだ。

 ふと、その木々の間に人影を見つけて車を止めた。目に沁みる真白な療養所の服を着て、おそらく犬人であろう彼はじっと木を見上げていたようだった。私が見ていることに気づいた様子もなく、ずっとその姿勢を崩さない。その視線の先にはほとんど葉を落とした梢がある。ちょうど私がそこを見たとき、その葉が一枚舞い落ちた。
 それを見た彼は何かを決心したかのように脇に抱えたスケッチブックを広げて鉛筆を走らせ出した。おそらく療養所の患者が残された時間を少しでも有意義に使おうとしているに違いない。
 私はしばらくその木々に紛れた背中を見送った後、アクセルを浅く踏み込んだ。これで、彼との話題が一つできた。


 受付で許可を得て療養所の中へ入る。許可といっても、ちょっと職員の誰かに挨拶する程度でいい。
 この療養所で悪さをしようなどという酔狂な人間はまずいない。枯れ果てた場所。あの世とこの世の境目。棺桶をいくら引っ掻き回したところで得られるものなど何もない。
 部屋の扉を開けると、彼はうんざりといった顔で私を見た。
「来たのかよ」
「ああ」
 勝手知ったる病室に荷物を置き、持ってきた書類を並べてみる。そんな私を見る彼の尻尾はぴしりぴしりと枕を打っていた。
「そんな紙切れ、いくら並べても無駄だって知ってるだろ」
「私はこのためにここに来ているんだよ」
 興味ないね、と彼はベッドの上に寝転んでしまった。私も何かしら進展を期待していたわけではないので、今並べたばかりの書類を手早く片付ける。彼の機嫌が少しは直った頃合を見計らってから、先程手に入れた話題を振ってみた。
「絵を描いたりはしないのかい?」
「絵? なんでまた絵なんだよ」
「いや、なんとなくね。こういう場所では絵を描くものだと教わったから」
「そんなの嘘だ。ここで絵描いてる奴なんて一人しかいないし、それに……絵とか、描いたことないし」
 うねうねと動く尻尾が本音を告げていた。
 私は鞄を探り、白い紙と鉛筆を一本机の上に置いた。
「何だよ」
「描いてみないかな、と思って」
「はぁ?」
 彼は嫌そうな顔をしつつも、鉛筆を手にとって手の中でくるくると回す。そのやけに子供じみた遊びを巧いものだ、と思う。似合わないとも思う。
「何か描いてみたいものはないのかい? 風景とか、人物とか」
「ないね。あんたの毛だらけの心臓なんか面白そうだけど」
 憎まれ口を利きながらも、彼の目はしっかりと紙の上に吸い寄せられている。しばらく思案していたようだったが、やがて鉛筆を机の上に放り投げてしまった。
「駄目だ。描けない」
 またベッドの上に寝転んでしまう。今回はまだこちらを向いてくれているだけマシと言えた。
「どうしてだい?」
「言っただろ、やったことないって。どうすればいいのかよく分かんないんだよ」
「そんなものかな」
 私は床に落ちてしまった鉛筆を拾い上げて構えてみる。昔、教養の一つとしてデッサンを仕込まれた事がある。
 自分の目で対象の輪郭を捉えて、それを紙の上にできるだけ正確に再現する。円と点を捉えて、あるがままの姿を紙面に写し取る。
 数分もすると紙の上には彼の寝姿が描き出されていた。
「……上手いじゃんか」
彼が目を丸くして言う。
「所詮手慰みのデッサン止まりだよ。本格的に練習すればもっと描けるのかもしれないが、でも……これ以上続けても、無駄だと。先生はそう仰っていたよ」
「ひどいこと言われてんな」
「事実だよ」
 そんなことは私だって判っていた。だから、そう言われたときには落胆するどころか安心さえした。あれから今日まで絵を描くために鉛筆を握ったことなどない。
 寂しいといえば寂しかったかもしれない。無心になれる分、絵を描くのは好きだった。
「……俺も、やる」
 彼は私の手から鉛筆を奪い取って、新しい紙に鉛筆を走らせた。紙の上にぐりぐりと黒く太い線を塗りつけていく。幾何学的な模様と言うべきか、幼稚園児の落書きと言うべきか。どちらを言っても彼は怒りそうな気がする。くすりと笑ってしまったところで、白紙の上に向けられていたまっすぐな視線が私の方に向けられた。
「何笑ってんだよ」
「いや、今度は塗り絵でも持って来ようかと思ってね」
「……バカにして」
 私としてはそんなつもりはなかったのだが、彼は気分を害してしまったらしい。机の上に放られた鉛筆の先がぽきりと折れて床に転がった。拾い上げたそれは少し冷たく、指で潰すとすぐに粉々になった。
 こんなにも脆いものだったか。
 彼はそんな私を見て少し笑った。
「変だな」
「変かな」
「変だね」
 その声を聞く限り、彼は一転して上機嫌になったらしい。どちらかというと負の感情を表すことが多い尻尾も今は楽しげに揺れている。
「あんたは、変だ」
「そうかい?」
「俺が見てきた中で、あんたは一番変だ。おかしい」
「……そうかな」
「何考えてんのかさっぱりわかんねー」
「それは、君だってそうだよ」
 彼が何を求めているのか、私には分からない。私が何を求めているのか、彼には分かっている。それは越えようのない私達の差だ。
 蚯蚓が出鱈目にのたくっているようにしか見えない紙を手に、彼はフンと鼻を鳴らした。
「今日だっていきなり絵を描かせようなんてしてさ」
「行きがけに絵を描いている患者さんを見たんでね」
 ――瞬間、彼の表情が凍る。ひゅっと小さく息を呑む音が聞こえた。
「……どこで?」
「外の、白樺のあるあたりだったかな」
「……そっか」
 彼は手にした紙を丸めると、部屋の隅の屑籠に放る。彼の初めての絵は壁に当たってぽとりと落ちた。
「……どうしたんだい?」
「……」
 彼は黙ってベッドの上で窓の外を眺めている。その小さな手がきゅっと握られているのを私は見た。窓からは立ち並ぶ白樺が見える。
「死んだ」
「死んだって、誰が」
「そいつ。ここん中でも特にヤバい奴でさ、もう死ぬって言われてたんだよ。ベッドからロクに起き上がることもできなくなってさ、ずっと絵描いてた。立って歩くなんてできるはずないんだ」
「……」
「もう死んでるよ、きっと。あんたは多分、この世であいつを見た最後の人間だ」
 彼は窓の外の白樺を、それが迫り来る死神の行列でもあるかのように睨みつけている。私には、その背中から何の感情も汲み取れない。
「そっか。あいつ最後まで絵描いてたのか。最後まで好きだったんだ。最後まで……」
 窓から見える白樺の白はやけに目に沁みた。



 その日はそれで終わりだった。
 彼はいつになく塞ぎこんで、頑なに視線を窓から外そうとしない。
 やはり「死」というものがこたえたらしい。死んだという絵描きの患者は歳も近かった。
 診療所から帰る道すがら、私は帰りしなに部屋から持ってきた紙くずを懐から取り出して眺めてみた。彼が初めて描いたという絵。ただ意味もなく線が引かれているだけだった上に、くしゃくしゃに丸められてしまったそれは、もう何がなんだかさっぱり分からない。それなのに、かえってその価値を増したように思えた。
「怒るかな」
 そう一人ごちて私はふっと笑みを漏らした。自分の絵とも言えない絵が勝手に消えている事を知ったら、彼はどんな顔をするだろう。きっと怒るだろう。怒って、私が今度来たときに投げつける文句を考え始めるだろう。
 そうやって、少しでも元気になってくれればいい。そう思った。




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